用户:韭露子/滋贺银行9亿日元侵吞案
滋贺银行9亿日元侵吞案(日语:滋賀銀行9億円横領事件/しがぎんこうきゅうおくえんおうりょうじけん?)是在高度经济成长时期的日本发生的一起巨额盗用公款案。该案件发生于京都府京都市的滋贺银行山科支店,由一名女性银行职员及其男友犯下,犯罪时期为1966年(昭和41年)11月至1973年(昭和48年)2月。虽然该案仅由一名职员直接实施——其男友主要起教唆和威胁犯案作用,并未直接参与侵吞或洗钱——但其涉案金额极其巨大,创下了日本历史上单一银行职员盗用公款之记录,直到2005年才被超越。[1]
概要
[编辑]在滋贺银行山科支店工作的女性职员奥村彰子(下称奥村)受其男友山县元次(下称山县)的唆使和胁迫,在六年多的时间里从银行盗用了巨额的公款,提现后几乎全部交予山县之手。山县却将大部分赃款挥霍掉,用于赌博(基本打水漂)、投资家人的产业(基本打水漂)、豪宅(只安置其家人,从未告知奥村)、豪车、游艇、豪游等个人奢华享受上,东窗事发后却将女友奥村从身边赶走。故而即使奥村是主犯,她也几乎没有把钱存下或供自己享受,还作为被坏男人骗光钱后抛弃的极端案例,博得了日本社会的广泛同情,以至于她的名字在很长一段时间里都成了养小白脸的女人的代名词。此外银行的管理体制在多年间都没能察觉到侵吞,故而受到严厉的批评,相关人士纷纷受到降职和降薪处罚,也有辞职而担责者。侵吞的确切金额为894,203,667日元[注释 1],如换算其货币价值则与2020年前后的30亿日元相当,在彼时创下单一女性盗用公款的历史纪录,引起社会的广泛关注,后甚至被改编成诸多电视剧、电影和小说。考虑到彼时的社会背景,本应步入婚姻的大量青壮年男性早早死于战争,社会上出现许多大龄剩女犯罪的报道。此外,当时田中角荣内阁治下高度成长期的日本物价异常高涨,故而也有观点认为是通胀背景下盛行的拜金主义风气将二人推向了犯罪的泥沼。[2][3][4]
两犯人的经历
[编辑]- 奥村彰子的履历
奥村生于1930年12月4日的大阪府,是家中三姐妹的幺妹。奥村一家之后移居京都市,但其父却在战后混乱期出轨其他女人,乃至抛弃家人与其私奔。家中长女嫁到东京,遂和母亲与二姐三人一起生活。姐姐也是单身的银行职员,与丈夫离婚并尽力支撑一家生活的奥村母曾告诫彰子:“一定要小心男人”。1948年3月,作为旧体制的5年生毕业于京都市的京都市立堀川高等女学校。学校受GHQ的战后改革影响,改革为男女共校的新体制高中,她本作为三年生被编入学校,但由于其母反感男女同校,于是就在7月从学校退学了。该年12月27日被滋贺银行京都支店录用,负责存款业务,1949年10月被调岗至银阁寺支店,1951年6月被调岗至北野支店,1953年因其工作勤勉能力精熟,甚至被店内的同事们称为“定期存款的神明”。[5][6]1965年4月与日后的男友与共犯山县结识,9月作为经验老道的银行职员被提拔至山科支店。她在银行内的人望愈发攀升,1972年10月5日被拔擢为女性职员中唯一一位“事务裁决者”,尽管这家支店就是她犯罪的起点。1973年2月1日调任至东山支店,继任的职员旋即发现了她任内的种种非法行为。[7][8]她被报道为身高1米53的美人[9]。
- 山县元次的履历
1940年4月3日生于朝鲜半岛的首尔市。其父为警察官,有三个哥哥,有姐、弟和妹各一人。一家人战争结束后被遣返回下关市,其曾报考当地高中,但考试却没有合格,后被父亲托关系送入一家玻璃工房,1956年时还边工作边读起定时制的下关商业高等学校。山县被校内的朋友带去赌竞艇后愈发沉迷,在学校里频繁翘课,最后在二年级时主动退学了。老师也在其档案里写道:“缺席过多,无学习意愿。”[10][11]22岁时在店主和哥哥的援助下独立开店创业,但依旧终日泡在竞艇上,不到四个月就关店了。他对于同为赌博的赌马和竞轮从未表现出兴趣。有一段时间他热衷于歌声吃茶,一时间还怀抱着歌手梦想整过容,不光有女人缘,还在这时结识了未来的妻子[7]。之后他为了挣生活费和竞艇钱,开一辆破车做起黑出租的行当,但在1964年2月被举报至下关警察署,缴了罚金8千日元。尔后下关市内对黑出租的打击愈演愈烈,他也为此丢了饭碗,于是在1965年拜托了同父异母的哥哥,前往京都谋生,成为了正规的出租车司机。然而他的服务态度十分恶劣,还不止一次私吞出租车的营收,于是反复被解雇,断断续续在5家公司干过。在此期间他认识了来打出租车的奥村,开始交往后唆使她贪污银行的钱[5][12]。他被报道为身高1米60的美男子[13][14]。
事件经过
[编辑]始于二人结识
[编辑]- 相逢与再会
1965年4月,奥村在京都市参加了滋贺银行北野支店和其他支店的团建,散会后打车回家,出租车司机就是山县。于是她就坐上副驾驶席,给在京都初来乍到的山县指路。那时奥村心情很忧郁,山县察觉后温柔地安慰了她,虽然二人对彼此留下了印象,但却没有交换联系方式。奥村在到地方下车后,却不小心将车上的驾驶日报给带下来了,好在记住了出租车所属的公司,第二天去营业所把日报还去了。一年后的1966年5月,她在一辆拥挤的公交车上偶遇了刚出琵琶湖竞艇场的山县,于是和他一同下车,被他邀请至咖啡厅后相谈甚欢。山县跟她吹嘘说自己靠竞艇挣了大钱,奥村便劝他在自家银行存定存,山县便告知了同居的哥哥家的电话号码。过了几天,定存业绩斐然的奥村给山县打电话,把宣传存款业务的银行传单交给山县,二人便以此为契机开始交往。该年奥村35岁,山县26岁,刚开始恋爱没多久奥村就提出想跟山县结婚,山县对此却含糊其辞。于是二人的恋爱花销完全由奥村承担,连竞艇的赌资都要从奥村手里拿。山县答应她说竞艇赌赢了就还钱,把这种诺言当真的奥村便开始仔细记账,以便将来让山县还钱时有所依据;然而山县愈发变得欲壑难填,1966年8月奥村甚至被他求着买了辆15万日元的二手丰田轿车给他,到了11月奥村自己的积蓄已经见底了,不得不擅自取出家人的存款来满足他的贪欲,最后总共给了他140万日元。[5][8]
- 最初的侵吞
就在这时,奥村又接到了一笔新业务。60岁刚退休的K男在银行跟她说,想把退休金存起来,于是奥村就给他办了100万日元的定存。K男对奥村图谋不轨,拉近彼此的距离,便告诉她说:“钱都交给你。你办事我放心。”还把存单和印章一并交给了奥村。山县听说此事,就跟奥村说:“把那笔钱给我吧,我拿去赌竞艇多挣一倍后再还给你。”“我想换一辆日产的二手车,把那笔钱给我吧。”奥村拗不过他,于是就在1966年11月7日擅自解除了定存合同,把这100万连同利息一起取了出来。她原本只给了山县40万,还让他发誓说一定会在合同到期日前把钱还回来,本打算把60万留在自己的手边,但经不住山县的请求,还是把剩下的60万也给了他。山县还跟她说:“K男的退休金肯定不止这些,你能想想辙不?要靠竞艇发财得有更多的本钱才行。”于是奥村便找上K男,希望他能继续在自己手里办定存,12月28日K男给了她一张70万日元的支票,并且同样要求把存单和印章留在奥村手里。奥村没有用这笔钱给K男办定存,而是汇到自己的账户里,分数次取出后交到山县手中。1967年4月21日,奥村以同样的手法又取得30万,但在K男的要求下,二人开始在酒店和K男的家发生肉体关系。尽管K男的年纪大到能当奥村的爸爸了,但考虑到K男如提出解约必定导致事情败露,对此感到畏惧的奥村只好不断奉陪,日后还对搜查官坦白称,即使反感和K男上床也不敢拒绝。后又用同样的手段昧了K男总计470万日元,照旧把支票里的钱汇到自己的户头上。山县曾追问她是不是跟K睡了,奥村承认说是为了让K男多存钱,为了接着弄钱赌竞艇的山县也没再说什么。就这样,奥村前前后后从K男手里贪走了1,240万日元。[5][7][8]
就在这个时期,山县瞒着奥村开始和另一位女性交往,1967年9月起开始在下关市同居,乃至后来与其结婚,而奥村直到事发被捕才得知此事。9月28日奥村拿到了K男的最后一笔存款,但这段时间山县三天两头就来往于下关和京都之间,频频沉溺于周边的竞艇场,钱压根儿就不够花。他还直接开车到奥村家接彰子去兜风,每次去时都给奥村母和奥村姐带去鱼干等土特产,于是奥村一家都承认了二人的关系。山县吹嘘说自己家里是做大买卖的,结果彰子的家人们真就信了他,以为他是“下关的资本家少爷”。[5][7][8]
1968年1月3日,二人又来到一家酒店里幽会,这时山县又开始索要:“能不能从银行里再弄个20万出来?”由于和K男有私人关系,奥村觉得想接着昧他的钱还是有机会的,但依旧不太敢对其他客户的钱下手。苦恼过后,为了挽留山县的情感,奥村心生一计:如果是刚刚办下来的定存,客户在定存到期前十有八九不会来取,所以可以由自己提前解约并把存款都提走。她盘算着,只要在定存到期时把钱再准备好就不会暴露,还不切实际地期待着山县真的会把钱还回来。山县频繁给奥村打电话问她钱准备好没,就算奥村拒绝他也不断恳求:“别这么冷酷嘛,都指望你了。”于是奥村也心软,不想让他失望,只好顺从他的无理要求。她刚好找到这么一笔存款,去年年末刚存下的一年定存,金额也正好是20万,于是篡改了文件后把这笔钱给盗走了。这是奥村第一次伪造文书,也就是从此时开始山县愈加管她要钱,为了满足其的贪欲,奥村也开始反复侵吞,光一个月就盗走了5笔钱。山县之后还威胁她说:“有一就有二,有二就有三。你要是不接着干,我就向银行曝光你。”于是奥村就在犯罪的泥沼中越陷越深。[5]
犯罪手法
[编辑]- 印章复制
这种手法与K男时的情况完全不同,客人并没有把存单和印章寄放在奥村手里,奥村自己也不认识客人,想把客人的钱昧走就必须伪造存单。由于奥村自身负责的就是存款业务,根本不需要偷偷摸摸地伪造,大可以在干活时明目张胆地做。伪造存单需要的不光是客人的印章,还需要支店长的批准章;于是奥村便准备了蜡纸,从盖好印章的文件复印之,再印到想要伪造的文件上,借此巧妙地转印了印章,尽管印记会变淡一些。日后警方测试了这个手法,发现即便是吹干很久的旧印记也能成功复写,搜查官们对此十分震惊[5][15]。刑警们在搜查时面对堆成山的文件,为了找出那些伪造的文件,便对着灯光把文件举起来,蜡纸复印的印章在灯光下会发亮,以此为线索进行搜查[16]。其实这招不是奥村自己想到的,而是上司教给她的。存单上如有错记则需要客户的印章来更正,用这一手就不用特地麻烦客户再跑一趟了,没承想奥村竟把这一招用于犯罪[17]。奥村每天经手的交易能有上百笔,谁都没注意到她悄悄在里面掺杂了伪造的存单[18]。
奥村往往拿着伪造的存单找上出纳员,谎称客户想要解约,借此取出现金;呼叫过根本没来的客人后,奥村便称客人把钱寄放在自己手里,就此把钱贪走。为了不让人怀疑,还把现金连同利息一起放在手边,做出一副随时都能交给客户的样子。奥村再山科支店工作的7年5个月间攒下许多熟客,不少客户会跳过出纳窗口直接让她取存款,这也为她的犯罪提供了便利[19]。就这样客户在毫不知情的情况下存款被解约,为了应对客户在定存到期时前来取钱,奥村还篡改了银行内部的文件,以此为契机开始用相同的手法对更多客户的存款下手。最开始她只盯上一些小客户的钱,最多的也只有30万,她盘算如果是小钱的话客户不太可能提前来把定存取走。这种手段集中在周五、六、日,和月末等业务高峰期实施,因为这些时间段出纳窗口十分忙碌,来不及仔细确认。然而山县在拿到这些赃钱后却只会用“看我拿去赌竞艇翻倍后还你”这样的话来反复糊弄她。[5][20]
- 傀儡账户黑吃黑
当时的银行有不少客户会持有数个架空名义的傀儡账户,把资产分散起来存在各个账户里,借此达成逃税目的,这样的账户成了奥村的绝佳猎物。这种匿名存款本来就是为了藏匿资产才存下的,到期前提前来解约的可能性极低,不少甚至到期了以后也没人管,就那样躺在那些傀儡户头里。奥村盗走的钱大部分都来源于这种账户。奥村自身也在银行有傀儡账户,她把贪来的钱存在这个账户里,装作是客人寄放在她手里的钱,堂而皇之地把赃款粉饰成业绩;当山县又来要钱时,随时随地都能取出来。除了死期活期等存款外,她还捏造出不存在的客户来,用这些傀儡名义制作了定存的存单收据,连印章也一起伪造,装作客户想解约一样写好支付单据,再转印了上司的批准章后从出纳窗口弄走现金[5]。
- 伪造计算机数据
滋贺银行从1969年7月起引进了计算机协助处理业务。由于被侵吞的存款登记已经被消除了,再想取钱就会显示查不到此交易;于是如有客户来银行要把存款取走,奥村便输入其他真实存在的客户的号码,把他们的钱取出来,借此拆东墙补西墙。考虑到其他职员来操作计算机可能会导致败露,奥村就告诉自己休息时来换班的同事说:“我不在时不要乱动电脑。我自己会做。”[5][21]1972年前后,奥村的侵吞行为导致计算机频繁出现定存的解约提示,甚至影响了正常业务,但银行却没有做出任何对策[17]。
- 带走现金的方法
奥村要把现金带走时为了不引起怀疑往往非常小心。用的最多的方法是一个人加班到很晚,等同事们都走了以后把现金放在手包里带走,秋冬时节还会特地穿上有很多兜的外套,把20万到50万的现金揣在身上带出去。后来她贪的钱越来越多,从1972年起假托要在家里继续工作,上班时会带一个自称用来装资料的纸袋来,袋子底部有一个隐秘的小空间,回家时就把钱藏在袋子里偷偷带走,有时甚至一次带出了厚达8厘米的500万现金。[22]
2人の共谋
[编辑]- 抜き打ち検查をすり抜ける
各银行では行内の作业が滞りなく行われているのを确认するため、抜き打ちで本店が検查をしており、滋贺银行でもそれが実施された。Oは最初に支払伝票を细工して金を不正取得して、上司の印鉴が必要な书类の伪造は押印を盗用する机会を待つため、后回しにすることが多かったので、検查を察知したOは慌てて伪造分の不正证书をまとめて作る必要に迫られた。2回目の検查の顷には犯行回数が180回にも及んでおり、残业を装って行内で自分の不正行为を记录したノートを见ながら改窜に取りかかったが、间に合わなくて书类の缀りなどを一式持ち帰り、ホテル内でYにも手伝わせ、ひたすら伪书类を作成した。客の署名が必要な书类にはYが署名したが、これによってYは、Oが胜手に贡いだだけという言い訳が效かず共犯関系が明白となった。后に逮捕された时、Oは捜查官にYの署名のある书类をより分けて捜查に协力している。また书き损じた书类は机の引き出しの奥に溜め込んでいたが、いつまでもこんな物を持っているのは危険だと感じたOはホテルで焼却し、この时部屋が烟で充満したので、Yは窗を开けて换気をして灰をトイレに流すなど不正に加担している。その后も検查は実施され、1971年1月の查察では着服横领の回数は340回にも达していた。この时にもOとYは前もってホテルに部屋を取り、大量の书类の伪造に取り挂かり、検查の时には1つの书类の不备を指摘され、言い訳をして何とか逃れているが、结局は不正は発覚せず疑いの目を向けられることもなく、Oは模范银行员としての评価を损なうことはなかった[5]。
- 横领金で豪游
そのうちYの要求も大胆になり“これで送金してくれ”と、下関の弟や兄宛ての现金书留の封筒をOに何十枚も渡すこともあり、着服金はY一族にも流れ込んだ。1969年10月顷から1回の着服金额が50万円ぐらいにはねあがり、それが1970年7月以降になると100万円にまで増え、Yも次第に少ない金额では満足せず、Oから150万もの金を受け取った时にも“明日はいい选手が来るので大口の胜负をしたい。もっとどうにかならないか?”と横领金の増额を要求をすることもあった[5]。
1970年5月15日、Yは大胆にもOに内绪で同栖していたウェイトレスの女性と入籍し、翌年の4月には子供も生まれている[5]。
8月、日本万国博覧会の见物のため、Yが下関から身内や亲戚をマイクロバスに乘せて京都を访ねてきた时は“万博见物で金がかかるので100万円ぐらい都合してくれ”と言って金を受け取った。この大阪万博にOは母と姊と一绪に、Yに连れられて4回ぐらい行っている[5]。
Yは兄弟や友人と、京都市东山区の行きつけのクラブ (接待饮食店)に月に10日ほども通い、1度に7万円ぐらいも散财し、着いたホステスには1万円のチップをはずむなどの豪游をして、繁华街の女性达の间では“チップのお兄さん”と呼ばれていた[23]。着ている背広は英国制に変え、祇园の高级寿司屋での1か月の支払いが50~60万円にもなり、3日に1回は床屋で洗髪とセットをして関系者に心づけをふるまい、その子供たちにまでお小遣いをばらまくなどの浪费を重ねた[10][24]。
- 増大する着服金
犯行当初Oは横领金额、日付、渡した金额、场所などを克明に手帐に记录していたが、1970年11月には额が2亿に达し、あまりの大金に恐ろしくなって记载するのは止めてしまい、1971年も暮れになる顷には、Oは着服した金额の合计がどれくらいの额に达しているかは、把握することも难しい状态になっていた[25]。1972年になると1回あたりの横领金が飞跃的に増大し、最高で350万円にも及び、それも1日に1回というのではなく2回から3回にまで増幅し、日を置いて行なわれたのでもなく、连日続けざまに骗し取ったこともあった。この年の1年间だけでも4亿6千万円にもなり、着服金额の合计の半分にも达するほどで、1日に1回は下関にいるYから“金は送ってくれたか?”という催促の电话が来ており、その都度、何日にいくら送金したかを教えていた。现金を送付するということはOにとっても大変で、邮便局が开いてるのは日中だから、昼休みを利用して现金书留の封筒をもって走らなければならない。その间に金を骗し取られた客が银行へ来て预金の解约、払い戻しを请求したら不正は一辺にばれてしまうので気がおけず、それが心配でOは昼休みにも、めったなことでは席を离れることも出来なく、昼食も外でとらなかった。Yは下関と京都を飞行机で频繁に往复しており、Oは“あなたはお金を受け取るためだけに京都へ来ているの?”と责めたこともあった。Yが昼间、支店の近くの路上でOから银行の封筒に入った现金を受け取り、その夜の情事の后また金を受け取り、多い时には1日に5、6百万もの金を懐にし、これらについてOは“本当に无茶苦茶なことをしていた”と回想している。ある日、Oは“本店から利息の额がおかしいと言われた。ばれてしまうかも”とYに相谈したこともあったが、Yは“いざとなったら逃げたらいい。行くとこまで行かなきゃしょうがない。だから今のうちに顽张ってくれ”とけしかけた[5]。
- タクシーへ横领金の置き忘れ
1971年12月15日、忘年会の帰りに上司に関系を迫られたOは一绪にモーテルへ行くが、皮肉にもそこはYとよく利用していたホテルで、そこへ向かう途中のタクシーの中へショルダーバッグを置き忘れ、不正が発覚寸前になることがあった。そのバッグの中には指轮6个(77万円相当)と、その日に银行から着服した159万円の现金が滋贺银行の名前を印刷した袋の中に帯封に闭じられて入っていて、さらに送り人がYで受取人が下関に住むYの弟という宛名书きのある现金书留の封筒が7枚も入っていた。指轮の方は“俺ばっかりが金を使うのは引け目を感じる。君も使え”とYから勧められてOが买ったもので、この落とし物がきっかけで自分の犯行がばれてしまうと焦ったOは、警察へ届けるよりも先にタクシー会社へ问い合わせたが、その时は届けはないという返事であった。拾得物は中立売警察署へ届けられており、中身を见た警官が不信感を抱き、18日に警察官が银行に来て支店长代理に、Yとその弟名义の预金口座が存在するかという调查を要请した。困り果てたOはYへ电话して“警察へ落し物の届け出を出さないとかえって怪しまれる”と相谈したところ、Yは“俺が竞艇で储けた金を君に预けて、送金してくれるように赖んでいたことにしろ”と指示を出した。Oは仕事が终わった后、Yと一绪に山科警察署へ出向き纷失届を出すと、警察は3日前の落とし物を、なぜ今顷になって届け出たのかとOに问いただしたので、“あの晩、上司とホテルへ行ったので届けにくかった。万が一ばれてしまうと银行におられへんようになる”と言い訳した。翌日、保管していた中立売警察署の连络を受け、Yと共に出头しバッグを受け取り、Yは“今后気をつけろ”とOに忠告し、150万円の金を受け取った[5][15][11]。
1972年4月、YはOから受け取った横领金の一部で‘Y商会’という金融业を设立し、北九州市で青果商を営んでいた兄を社长にして、本人と义兄(3女の夫)、弟は重役という役职に収まった[26][10][27]。
模范的な银行员
[编辑]Oは自分が休みを取っている间に、他の行员が不正を嗅ぎ付けやしないかと気に病み、その为、年に何回かある有给休暇は1度だけ旅行した时以外は1日も休みを取らなかった。残业も积极的にやり、日曜日、祝日にも出勤して不正のやりくりをし、自宅にまで预金者资料を持ち帰って伪造に努め、そこがかえって上司からは仕事热心ととらえられた[28]。周囲からの评判は良く若い人に仕事を亲切に教え、どんな雑用も率先してやり、后辈からは尊敬され、上司の信用も一身に集め、Oに任せておけば间违いないとの评価まで得ていた。银行では支店长、支店长代理、次长は异动が激しく、山科支店での勤続年数はOが最长になっていたことから、同支店の生き字引的存在になり、その真面目に映る勤务态度が评価され、1972年10月5日、ついにOは一般行员としては最上の役职となる事务决裁者としての地位が与えられたが、それが犯行をさらに容易にさせた[5][21]。しかし何人かの行员には度々、Yの运転する赤いスポーツカーが银行近くまでOを迎えに来たところを目撃されている[11]。
逃亡
[编辑]- 人事异动で露见
1973年2月1日付でOは东山支店への転勤を命じられた。これは栄転で、东山支店は1年前に新规开设され预金额が大幅に増えてきたので、事务决裁者に升格したOにより重要な役职についてもらうための人事异动として、熟练者だったOを支店长が引き抜いたものだった[29]。しかしOにしてみれば、后任に不正を発见されるのは明白だった。4日、Oはこれまでの犯行に用いた多数の三文判を下水に投げ舍て证拠隠灭を図り[30]、5日まで山科支店にて残务整理を実施。6日に东山支店へ出勤。7日夜に京都市内の吃茶店からYへ电话を挂け、“もうどうにもならない。一绪に死んで欲しい”と心中话を持ち挂けた。Yから“明日京都へ行く。ブロバリン(睡眠薬)を买っといてくれ”と返答を受けると、京都市内の薬局を何轩も回り、200锭のブロバリンを买い集めた。
山科支店では、8日顷から业务を引き継いだ行员が、帐簿上辻褄が合わない点が多数あることを指摘した。支店长はOに呼び出しをかけ说明を求めたが、Oは电话応対で何とかその场を取り缮った。8日夜、京都にやってきたYにOは泣きながら心中を迫ったが“俺には亲兄弟もいるから”と拒否された。9日、自宅にまた山科支店から“残高が合わないから出头してもらいたい”と电话があったが、Oは“明日行って说明する”と返答し、当日になって“胃の调子が悪いので病院へ行く”“精密検查をしてもらう”などと言って呼び出しを断り、引き延ばし工作にかかった[31]。11日、Oは飞行机でYに会いに北九州市まで飞んで行き、また心中を迫り“死ねないのなら、どこかにかくまって欲しい”と恳愿したが、Yは“こっちで京都弁は目立つ。関西方面へ逃げろ”と突き放した。この时、Oは当座の生活费として200万円の现金を持っていたが、150万円をYに取られ1人で京都へ戻った。13日にもYに会いに北九州へ飞び、再度逃げ场所の确保を恳请したが、またもはぐらかされ1人で自宅へ戻った。银行からは再三再四、不审な点の说明をせよと电话が来ていた。
13日夜、Oは母と姊に“银行に行ってくる”と言い残し、手元にあった现金70万円と指轮をハンドバックに入れ、逃亡を始めた。16日、Oが大阪国际空港近くのホテルへYを呼び出し、“どこかへ隠れて住み込みでもして动くつもりだ”と告げると、Yからは“だったらこんなものはいらないだろう”と言われ、唯一の财产であった指轮をも取り上げられた。Yはこの指轮12个を2回の担保に分けて北九州市内の金融业者から金を借り、またも竞艇につぎ込んだ[5][1][7]。
- 全国へ指名手配
银行侧はOが着服を动いて逃亡したと判断し、18日付で滋贺県警察に届け出て翌日から捜查が开始され、同県警捜查二课からは山科支店へ捜查员が派遣されたが、すぐに“人手を増やしてください。不正证书の山です”との返答が返ってきた。それと同时にOの家にも捜查员が向かったが、Oの母は“娘がどこに行ったか分からない。连络があったら真っ先に知らせます”と动揺しており、姊にも事情聴取したが结果は同じだった[18]。19日の时点で被害额は概算1亿2千万円に达することが分かり、21日に头取からOに対して正式に告诉がなされ、26日に惩戒免职とし、同时に滋贺県警捜查二课は逮捕状を请求し裁判所はこれを受けて発令、その时点で42歳になっていたOは全国に指名手配された。初期の段阶での捜查目标は2つで、Oの逃亡先を探ることと被害の実态调查で[5][32]、警察はトラック2台分の证拠书类を押収し3月30日、事件を正式に报道机関に公表した[7]。
- 盲点だった行员との信赖関系
模范银行员として通っていたOの不祥事に、银行の干部は大きな冲撃を受けた。支店长は“Oはベテランで仕事も真面目で私も安心していた。女性行员の指导的立场にあり残业も嫌がらずにやっていた。私生活のことは関知していないが、问题があったようには闻いていない[33]”と言い、常务は“支店では必ず毎日の业务をチェックしており、しっかり诘めをやれば不正は分かるはず。だが伝票さえ合えば、それ以上行员を疑わないのが通例。さらに诘めをしようと思えば业务时间が倍増するので、行员の仕事を信じざるを得ないのが実情。このためにも信赖できる行员を厳选して雇用しているのだが、この盲点を完全に利用された”と语った。他の银行関系者も“银行业务は行员への信赖なしでは成り立たない”と述べるなど、金融业界はその体制の改善を迫られた[34]。
警察が谜としたのは金の行方で、Oは自分の为に大金を使った形迹はなく、长屋に母と姊の3人住まいの质素な生活ぶりで、政治や宗教団体にも金が流れた形迹はなく、分かったのは知人から买ったという自宅に残したダイヤモンド、ヒスイ、オパールの指轮13个、750万円相当で、それらは银行が差し押さえた[21][35]。
- 疑われた最初の被害者
警察では早い段阶で背后に男がいるとにらみ、Oが逃亡直前の2月7日に伝票を伪造して作った200万円と300万円の2つの小切手の送り先であるKに注目した。その金は情交まで结んだKの口座がある信用金库へ、骗し取った分の返却としてOの罪悪感から弁済として振り込んだものであったが、警察はKが黒幕と疑い、さらに1千万円以上もの金を预金证书、印鉴共に预ける不自然さなども指摘し取り调べた。そこでKはこれまでのOとの関系を洗いざらい告白し、何とか容疑を晴らした[5][36]。
- 浮上した下関の男
警察では同僚やOの母からの闻き込みで、山科支店に毎日のように电话を挂けてる男や、30代前半の男が银行の近くまで车で迎えに来てたとの证言を得てYの存在を割り出した。そして、かつて“白タク”と言われる无许可のタクシー运転手をしていたYが、急に“金持ちのボンボン”と噂されるようになったこと、各竞艇场に入り浸っていることなどから事件との関系の疑いを强め、Oの女友达からもYが“下関の海产物商の金持ちの息子”だとの话を闻き出し、Oの母と姊もその话を信じていたことも判明した。2月末、捜查员が下関に派遣され、下関警察署へ任意出头をYに求め2日间取り调べを行い、その派手な金遣いの生活について调查した。现在は无职であるYの金の出所に関しては、“ボートで储けた”と语ったが、刑事たちはOがつまんだ金を汤水のごとく使っていることの推测をつけ、4月末顷にはYが犯行を里で操っていた人物とほぼ断定したが、たとえ逮捕しても否认することは予想できたので、傍证固めを致密に行う作业に入った[5]。
特别捜查部の刑事が终日、竞艇场で游ぶYを监视しするなどもしたが、竞艇関系者から闻いたYの评判は“胜つことより负けることの方が多い”“Yの赌け方では储かるなんてことは信じられない。1千万円取ったとしても、そのための元手を2、3千万円はつぎ込んでいるはず”“日本中捜しても、后にも先にもあんなに竞艇で负けた男はいない”といった声が闻かれるなど、大金の出どころについては疑惑が深まるだけだった[12][37][18]。
Yと亲しかった京都市内の友人にも事情聴取をしたが、そこで分かったことは、2年前から午后7时顷になるとよく谁かに会いに行き、行く时はほとんど金を持っていなかったのに、10时过ぎになると、その都度70万、100万、200万円という大金をポケットに入れて帰ってきたこと、一度Yに百万円を贷したことがあり、请求したら数时间后には110万円にして返済したこと、竞艇へ行く时の军资金は5、6年前は多くても5、6万円ほどだったが2、3年前からは2、3百万円の大きな胜负をするようになったことなどを闻き出した[28]。
- 大阪へ流れつく
逃亡中のOは大阪市内の旅馆を転々として泊まり歩いていたが、やがて所持金も使い果たし、“空き室あり”の张り纸を见て2月26日、城东区内の风吕はなくトイレと洗濯场は共同の、四畳半一间、家赁8千5百円の安アパート‘T荘’へ転がり込んだ。その时のOの持ち物はショルダーバックと纸袋のみで、入居するにあたって入江よし子という伪名を使った。管理人の66歳の女性Aは面倒见の良い人で、所持品をほとんど持たないOにご饭を炊いてやったり、自分の布団を提供したりとこまごまと世话を焼いた。Oは“明日からの生活に困るので何でもいいから仕事を探したい”と言って、Aに仕事探しを付き合ってもらい、京桥駅 (大阪府)近くにある大众割烹店‘酒房M’で皿洗いの仕事を见つけ、翌27日から动き始めた。时给2百50円、午后2时半から9时までの勤务で、手持ちの金が少ないので周给にしてもらっていた。勤务态度は真面目だったが、一度店主がレジの手伝いを赖んだ时には断固拒否して金には触れたがらず、字を书く时なども意识して笔迹を変えて身元がばれない工夫をしていた[5][38][39]。
- 新婚夫妇のような生活
4月末、Oは勤务先の酒房Mに客で来ていた45歳の土工の男性Bと知り合い、5月初め顷にはT荘で同栖生活に入り、その1か月后には男の勧めで店を辞めた。狭い部屋の中にはガスコンロ、テレビ、冷蔵库、炊饭器、化妆台などの家财道具も徐々に増えていき、ピンクのカーテンが引かれ、部屋からは2人で笑いあう声が漏れ、Oは一时の安らぎを得た[5]。毎朝6时半に出勤するBを外に出て见送り、夜は外で帰りを待ち、帰宅すると2人で銭汤へ行き、まるで新婚夫妇のような日々を过ごしている装いがアパートの住人に目撃された[40][3][41]。しかし近所で食料品などを买いに行く店は大体同じで、厚化妆のため谁もOを犯人と気付く者はおらず、极力外出するのを避け、銭汤でも颜は洗わず化妆を落とさないなど用心深さを怠らなかった[7][38]。
Bと同栖しながらも、Oは10日に1度の割合でYに电话を入れ、管理人のAには“私にはB以外に好きな人がいる。その人のためなら命を舍てても惜しくない”と话しており、4月になってからYとは2度、大阪で会ったが最后に“お前の面倒まで见られん。自分のことは自分でしろ”と完全に突き放された格好になった[7][38][42]。
内侦
[编辑]- 派手さを极める男の私生活
8月、刑事たちが下関市内の质屋でOの指轮23个を见つけ、质入れしたのがYであることを写真を见せられた店主は确认した。警察の捜查でYには别の女性と结婚して子供までいること、妻とは1967年9月から一绪に住んでおり、最初のうちは月々の家赁にもこと欠く有様だったのに1968年末顷から急に金回りがよくなり、カラーテレビやクーラーなど电気制品を买い渔っていたことが判明し、そればかりではなく1971年10月には下関に、地元の名士の1,340平方メートルの土地と建物を3千万円で购入し、それに手を加えて“Y御殿”と近所の人に噂されるくらいの豪邸に改装し、そことは别にYの両亲の住む実家の改筑も行っていた。入居してからはデパートから400万もの洋家具が运び込まれ、増改筑の大工や左官が出入りし、全室冷暖房完备にし、防音设备の整った麻雀専用の部屋まで造られた。京都から庭师を呼んで整备させた庭の広さは200平方メートルあり、100万円もする韩国制の石灯笼を备え、ゴルフの练习场と子供の游戏用の大きなトランポリンを备え、マスコミにプールと间违われた池には、1匹数十万円もするコイを泳がせた[23][11][10][43][44]。また、トヨタ・クラウンなど3台、モーターボート5只を所有し、四国から取り寄せた岩で大人が10人くらいは楽に入れるような岩风吕を作り、风吕には豪华な庭园が望めるような大きなガラス窗を取り付け、その家で妻と子供、弟一家、妹一家の计11人が派手な暮らしをしていた。その夜中まで明かりが煌々とついた豪邸で浮かれ騒ぎ、その狂乱ぶりは近所の人からは“Yファミリー”“ギャンブル一家”と呼ばれ评判だった[5][27][45]。
- 竞艇场のスター
Yは百万円の札束をポケットにねじ込み、亲族や知人に舟券を买わせて地元下関竞艇场以外にも若松竞艇场、徳山竞艇场、住之江竞艇场、尼崎竞艇场にまで足を延ばして赌け事に明け暮れ、各竞艇场では知らない人はいないくらいの有名人となっていた。1レースに200万円から300万円もの金を赌け、Y一族を引き连れて来た时は舟券の売り上げが大きく上升し、后に刑事たちが売上金の额を调べ、いつYが出现したかが见当がついたくらいで、住之江竞艇场では始まって以来という700万円の大胜负に出たこともあった。数百万円分の舟券を渡すとなると数えるだけで人手が足りず、待っているうちに他の狙い目の券を买いそびれるので、売り场の窗口が开くと、いくつかの窗口へ10万円ずつ投げ込み、舟券は后で回収するという派手な买い方もしており、的中して払い戻す时も、それだけの大金を用意しているとは限らないので、Yが现れると上层部に紧急连络が入るというY用の体制が整えられていた竞艇场もあった[29]。従业员の间でも“たくさん土地を持っている资产家の息子”との噂で[23][11]、その山口県、福冈県、大阪、兵库県、京都府を跨いだ派手な行动は三亿円事件の犯人ではないかと疑われ、京都府警察から特捜班まで编成され捜查もされていたこともあった。兄弟たちはそれぞれの定职を辞めてYから给料をもらって、弟はストップウオッチでボートの速度の计测を、义弟はYのボディーガード役をするなど竞艇の手伝いをしていた[5][46][47]。
Yは自宅に‘Y舟券研究所’の看板を掲げ、何人もいる付き人に20万円の给料を払って、研究のためと称して购入した外国制のボートを海で走らせるようなこともしており、车3台に兄弟らと分乘して各竞艇场を荒らし回り、知人にYは“俺は京都で一山当てた。竞艇ほど储かるものはない。金を预けてくれれば次の日には倍にして持ってきてやる”と豪语した[43][13]。
- 犯行の痕迹
警察はYが买った航空券の枚数、购入日、空港周辺の驻车场の使用状况などの绵密な调查をして一覧票を作成した。Oの足取りが杳としてつかめず、いたずらに日数だけが経过しており、杀されている可能性を排除出来ず、Yの里付け捜查の必要に迫られた。その结果Yは频繁に下関市から车で福冈空港へ走り、驻车场に车を预けっぱなしにしたまま大阪国际空港まで飞んで、付近の驻车场に预けていた别の车で京都まで往复していたことが分かった。また、横领金の流れを调べるべく、山口県と北九州市全域の银行に、Yとその亲族の口座があるかが调查された[18]。そして计约3亿円もの金が1971年から72年にかけて、滋贺银行山科支店や各竞艇场内の银行から山口银行のYの兄弟名义の口座に频繁に送金されていて、その日付と金额がOの犯行と一致してることを突き止めた。引き出したのはY本人であることも、写真を见せられた银行员によって确认され、伝票の笔迹とYの笔迹も同じで9月末、警察ではYの容疑をほぼ固めた[48]。しかし今Yを逮捕し事件がマスコミに报道されると、それを知ったOが自分の逮捕も间近と思い自杀をするかもしれないし、たとえ思いとどまったとしても、より慎重に潜伏し捜查がますます困难になる可能性があるので、Yを泳がせてOと接触する机会を待つ作戦に出た[5]。
巨额横领事件に発展
[编辑]- 日本中の耳目を集める男
滋贺银行本店検查部はOによって着服された被害额が、4亿8千万円にまで达していることを认めマスコミが騒ぎ始めた。事件は新闻、周刊志などで大きく报道され、警察は“共犯の若い男とは谁か?”という记者からの质问责めにあったが、Yの名前が世间に知れたら、2人は接触を避け捜查が困难になるので名前は明かさなかったが、マスコミは数日のうちにYの存在を突き止め、新闻、テレビ、ラジオ、周刊志の记者たちが下関のYの屋敷に杀到し、その豪奢な生活ぶりが白日の下に晒された。すでにYはOが失踪して送金が途绝え资金が枯渇し手形を乱発、多额の借金をして、他にも“Y御殿”と言われた屋敷や実家を担保にしてまで、竞艇代を捻出していた。それでも负けが込んで不渡りを出し、家の所有権も9月14日付で下関市内の金融业者に移っていたので、报道で知った债権者たちが慌てておしかけ、Yは警察、マスコミ、金融业者から追われる身となった[5][13][24][49]。
マスコミに応対する犯人
[编辑]Yの家の周辺は报道机関や见物人で騒然となって、Yは1日中家に闭じこもっていることが多くなり、Yが外出した时や兄弟たちも捜查员の尾行の対象となった。Yはマスコミの取材に玄関前で対応し、自分には赌け事の特别な才能があること、妻や下関市内の兄弟宛ての送金は全部ギャンブルの収入で竞艇场内の银行から送金していたこと、Oから金は贳っていないことなどを一贯して主张した[11][13]。“警察でOとの関系を追求されるわ、マスコミから犯人扱いされるわで迷惑している。嘘の记事を书いたら诉える”と不満を爆発させ、Oの居场所については“分かっていればすぐにでも知らせるし、出てくれば俺の疑惑も晴れる”と、洁白であることを断言し、杀到する记者にYは渋々ながらも个别の取材を受けた[50]。
“(银行の送金の伝票を见せながら)家宛に送金した。これだけで2亿円ある。これ以下の小さな金は自分で持って帰った。他にもいろいろ储かってる”"竞艇场から送金するのは伪装工作ととられかねない。その金はOがあなたに贡いだ金では?"“冗谈を言うな。谁がそんな面倒なこと、わざわざするか”"Oとはどういう関系なんですか?"“信用してたから竞艇で储かった金を预けて预金してた”"あなたの口座は滋贺银行にない。通帐は持ってるのか?"“亲しくしていた女だから任せていた”"それではOが失踪して実害を被ったのか?"“失踪する前に竞艇の负けが込んで、预けていた分はほとんど引き出したから被害はなかった”"最后に彼女と会ったのはいつ?"“Oが指名手配されてから电话があって自首しろと勧めた。Oが姿を见せたら全てははっきりする”"あなたの商売は?"“竞艇などのプロだ。负けたりしない。ギャンブルのことを常识で考えられたら困る”[11]
"タクシーに忘れた金はどこからのものですか?"“竞艇で储かったからOに郷里へ送ってもらうように预けた。警察にも说明している”"ギャンブルで储けて预金して、また引き出して送ってくれというふうに?"“そうだ”"あなたは滋贺银行に预金してたんですか?"“そうだ”"しかし口座はないが?"“彼女を通して确かに预けた。多い时は3千万円ぐらい。彼女の姊さんも银行に勤めてるし家も知ってるから信用している”"自分の预金通帐を见たことはあるか?"“ない。しかし今でも信用している”"どうやって大金を储けたのか?"“いろいろあるが言えない。まあ、ギャンブルとかだね”"そんなに储かるのか?"“嘘じゃない。俺は2亿円も3亿円も储けたことがある。俺はまだ彼女を信じたい。あれは银行内部の他の人の犯行じゃないかと思ってる”"男関系では、あなたしか强く浮かんできていないが?"“付き合った男は、もっといるだろう。そんなこと书くより、君ら500万や600万円持ってきてみな。すぐ倍にしてあげるよ”[14]
"家を买ったお金の出所は?"“ギャンブルで储けた。竞艇だ。竞轮、竞马は储からない”"今までどれくらい稼いだのか?"“ざっと计算して2亿円くらい。ここ2年の间でだ。たった2日间で7千万円储けたことも。信じられないだろうけど本当だ”"どんな买い方をするのか?"“穴なんて狙わない。本命だけだ。今度一绪に行って见せてやるよ。1千万円用意してくれれば、すぐ1千500万円にしてやる”"元手はどれくらいかけているのか?"“最低、100万から200万円だ。1、2万円の资金でやるなんてやめとけ”"1日にそれだけ稼いだ金はどうしたのか?"“竞艇场内の银行から山口の自分の口座に振り込んだり、鞄に入れて持ち帰ったりした。一度、空港の検查官から中身を见せろと言われたので、俺は‘开けてびっくりするなよ’と言った。现金で3、4千万円は何回でも持ち帰ったことがあるから平気だ。系の人に‘1枚足りないぞ’と冗谈を言うくらい余裕がある”"场内の银行から送った金に、Oが贡いだ分も含まれているのでは?"“バカ言うな”"仕事はギャンブルの他には?"“いろいろやってるけど、いいじゃないか、そんなことは”[23]
"Oと知り合ったのはいつか?"“1965年に京都に来てタクシーの运転手をしていた时、彼女が乘り合わせた。これをきっかけに亲しくなった”"タクシー会社は?"“5つぐらい変わった”"Oとはどのような交际をしていたのか?"“月に5~7回ぐらい会っていた。夜に食事をすることが多かった。亲密度は想像にお任せする。出会った时から最近まで続いていた。家にも行ったことがある。共犯と疑われても仕方がない立场だが、自分は1円の金も贳っていない。交际中、彼女の犯行にも気づかなかった”"多额の金を郷里の方へ送金しているが?"“この点で俺が疑われているようだが全部、竞艇で储けた金だ”"数千万という常识外の金だ。そんなに胜てるものとは思えない"“俺は竞艇で1、2亿稼いでいる。今日も50万円储けたばかりだ”"资金はどうしていたのか?"“兄弟など、いろいろな所で借りた。1千万円も借りたと思う”"金がある兄弟の所へなぜ送金するのか?兄弟は何に使っているのか?"“仕事で金が要るのだ”"滋贺银行には预金していたのか?"“竞艇で胜つたびに预金していた。彼女に赖まれたからだ。最初は500万円でスタートした。3千万円预けたこともあり、全部で1亿円近くになる。通帐は持っていない”"数千万円の金を出し入れするのに通帐も持っていないのはおかしいではないか?"“彼女の姊も银行に勤めており、全面的に信用していた。利子もきちんと贳っていた”"通帐がないのを知ったのはいつか?"“事件の発覚后だ”"彼女に预けっぱなしの预金はどうなったのか?"“事件発覚1か月前に‘残高はいくらか’と闻いたら800万円だった。その后、竞艇の负けが込み全部引き出したので损はしなかった”"逃走中の彼女から连络はあるのか?"“1度もない。会ったらすぐに新闻社に教える。男友达は俺だけではない”"彼女は杀されているのではないか?"“无事でいたら早く表に现れて欲しい”"あなたは竞艇で食っているのか?"“そういうわけではないが、まあいろいろだ”"京都の住所は?"“前は兄の家にいたが后は决まった家はなく、ホテルや友达の家を転々としていた”"今は下関にいるのか?"“まわりがうるさくなったので。もともと京都と下関を往复して暮らしていた”"また京都に行くことはないのか?"“近々行く予定だ。竞艇で一胜负するから、その时は连络するから付いて来なさい。コーチする”[51]
Yの父亲は取材で“息子たちの生活については、大人になったのだからまかせっきりだ。四男がいろいろ黒い噂を立てられているようだが、ギャンブルで储けたのだと信じているし滋贺银行事件とは全く関系がないと思う。早く指名手配されている女子行员が出头してくれるのが一番良い。私は息子を信用している”と答え、Yの妻も“夫からは何も闻かされていない”と答えた[50]。
行き诘まった捜查
[编辑]- 浮上した死亡说
新闻各纸にはOの杀害说と自杀说が频繁に报道され、10月5日に警察庁は各都道府県の警察に対しOの所在确认の彻底を通知し、ホテル、旅馆への照会や身元不明の変死体の洗い直しを急ぐよう通达、日本中がその安否を见守った[7][52]。
そのうちOが大阪市内で、かなりの足取りを残しているとの情报が警察署内にも入るようになり、食料品を买った女がOに似ていたとか、饮食店や电车の中で见たなど、Oの目撃情报の大半が大阪付近に集中した[53]。
それでもOの捜索は完全に暗礁に乘り上げ、Yを逮捕して追及するしか手が无くなった警察は、裁判所に出向いてYの逮捕令状の発行を要求した。しかし裁判官は“现段阶では、主犯を逮捕せずして従犯の逮捕状の発行は难しい。警察が掴んでいるのはOが横领した金をYの口座に送金したという事実だけ。もしYが‘横领した金だとは知らなかった’と言えば起诉できません”と警察侧の申し出を1度は却下した。それでも滋贺県警侧は“Oの所在は全くつかめない。Yから情报を得るしか选択肢がない”と、なんとか令状の発行を取り付けた[18]。
Oの颜写真もテレビで盛んに流されるようになり、部屋でOと一绪にニュースを见た同栖相手のBは、その女が自分の目の前にいるとも知らず“ひどい女がいるなぁ”と言い、Oはそれ以来Bにテレビや新闻を见せないように気を遣った[5][54][55]。
- 银行侧の処分
10月12日に开かれた取缔役会で、滋贺银行会长と専务の両役员が不祥事の责任を取って退任する他、取缔役12人と监查役2人の计14人の重役が全员、10月から6か月间、役员报酬の3割から1割をいずれも自発的に减额すること、3月末决算に计上された役员赏与700万円を返上し、9月末决算では役员赏与を计上しないことを决议した。そしてOが勤务中だった时の山科支店の2人の両支店长や、次长、その各代理他、本店部长など関系行员22人を1阶级降格、または减给するなどの処分を発令した。决算面では、その时点での确定被害额4亿8千万円を雑损として処理するため、株主配当は下落するので株主の了解を求めることになると発表した[56]。
逮捕
[编辑]- 男の逮捕
赃物収受罪(现在の盗品等関与罪)を适用するべく、10月15日の午前7时过ぎに滋贺県警捜查二课と山口県警察の捜查员が、车8台でY宅に到着し室内に踏み込んだ。その时、Yはベッドの上で寝ていて、揺り起こされて逮捕状を提示された。Yは14日夜から自宅に“警察だ!”といういたずら电话がひっきりなしにかかり、熟睡できなかったと言ってやつれた表情だった[57]。警察が“外には报道阵が待ち构えている。颜を隠さなくてよいか?”と寻ねると“これだけ騒がれてるんだから今更どうでもいい”と答え、マスコミの撮影攻势を浴びても平然としていた。Yの身柄は一旦、山口県彦岛警察署へ预けられたが、本格的な取り调べを受けるべく、その日のうちに滋贺県警へ飞行机で护送されたが、福冈空港では待ち受ける报道阵にYは“自分は関系ない。报道したら诉える”と散々悪态をついた[5][12]。
Y一族が诈取金と知りながら、金を受け取っていたのではないかと警察は疑いを深め、その里付け捜查に乘り出し、Yと一绪に住んでいた実弟と义弟(Yの妹の夫)、北九州市に住む実兄の自宅も捜索、参考人として事情を闻いた[58]。弟らに20万円の给料を払い竞艇の舟券购入などの手伝いをさせ、姊の経営するスナックバー (饮食店)にも融资し、豪邸内に住む身内は月百万円の生活费を受け取っていた。また警察は兄がYからの融资を受けて设立した金融会社‘Y商会’は、本人たちが専门知识もなく始めた业务で、Oが失踪してからは债务が焦げ付き経営が悪化、取り立てのため暴力団を使っていたことも突き止めた[39][59]。
- 电话番号から潜伏场所を割り出す
Yは毎日、朝から夕方までOとの共同正犯の疑いで取り调べを受けた。“Oへ金を预けたというが、滋贺银行にはあなたの口座がない”“竞艇でそんなに胜てるのか”との疑问点をぶつけられたが、Yはあくまで“现金书留や银行振り込み、手渡しなどの形で受け取った金は全て竞艇で储け、Oに一时保管してもらっていた”と主张、“Oとは失踪后连络はとっていない”と生死については把握していないと供述した[57][60]。19日になると“そりゃ竞艇で储けて预けていた金を受け取ってはいたが、たまには车が欲しいとか、服を买いたいなどと言うと、Oが百万円前后の金を渡してくれたこともある”と徐々にYは犯行への関与をほのめかし始め[61]、21日には“Oの住んでいる场所は知らないが电话番号なら知っている”と言って、大阪市内の电话番号を刑事に告げた。早速、刑事たちは番号から住所を割り出す作业に取り挂かり、それが城东区の集合住宅の‘T荘’であることを解明し、Yから入江よし子という伪名を使って潜伏している情报を得た刑事たちが现场へ急行した[5]。
- 女の逮捕
21日午后、T荘へ向かった3人の刑事は管理人のAにOの写真を见せ、“入江さんでしょう?”と确认を取った。Oと信赖関系を筑いていたAは警察に、“このアパートから手锭をかけて出るようなことはしないで欲しい。他の住人に惨めな姿を见せないで、ここは黙って连れ出して下さい”と恳愿した[42]。10分ほどで外出していたOが部屋に戻ってきたので逃亡を防ぐため表口と里口を捜查员が固め、1人が部屋に踏み込んだ时、Oは花を生けている最中だった。“Oさんですね?”と寻ねると“そうです”という返答があり、さらに“滋贺银行事件で逃走中のOさんですね?”とたたみかけると、“申し訳ありません”とOは一言言って素直に逮捕に応じた。そして刑事に一绪に住んでいた男Bに置手纸を书くことの许可を求め、わら半纸に
“ | お世话になりっぱなしで申し訳ありません、どうもありがとうございました。なにも真実を申さずにごめんなさい。 | ” |
と书置きをした。この时のOの所持金は4万円だったが、この同居の男から贳ったものだった[54]。
“申し訳ないことをした。何度も自杀や自首することを考えたけど怖くてできなかった。お金はほとんどYに取り上げられた”と大津署へ向かうパトカーの中で、Oは后悔の弁を述べた[62]。同居していたBについては“あの人だけには迷惑をかけたくない。とってもいい人だった。私に人间としての心を教えてくれた。饰り気の全くない人で、初めて人の心の温かさが分かったような気がします”と悔悟した[63][64][65]。またYが结婚して29歳の妻と子供までいたこと、横领金で下関市に“Y御殿”と言われる豪邸を构えていたことはOは全く知らなかった[5]。
一绪に住んでいた女性が逮捕されて県警の建物の中へ连行される様子を仕事先のテレビで见たBは、女が世间を赈わせていた犯人だとこの时初めて知って仰天した[5]。
- 手配写真とかけ离れていた颜
逮捕された时のOがテレビのニュースで一斉に报道されると、指名手配の颜写真とあまりに违うことが世间を惊かせた。厚化妆の42歳のOは10歳は若返って见え、大阪から护送されてきたOが车から降りた时、待机していた报道阵でさえすぐにOを见分けられなかった[7][63][66]。
- 母、姊との面会
22日、滋贺県警内でOは逃走后、初めて母と姊の2人と対面した。これにはOが素直に犯行を认め、证拠隠灭の恐れが全くないこと、母亲、姊から何度も面会要求があったことから県警本部长の计らいで実现した。捜查员に付き添われて2人の前で椅子に腰を下ろしたOは、背を向けて手で颜を覆い泣き出し、3人が言叶を交わさずにその场で10分ほど泣き続けた。その后、母はやっと一言“生きていてくれて本当によかった”と声をかけた[67]。
连日の取り调べを受けながら、Oの髪の生え际がみるみる白くなっていき捜查员を愕然とさせた。Oは犯行中の心労のため、42歳の若さにもかかわらずほとんど白髪で、それを隠すために今まで髪を栗色に染めており、捜查员に定期的に髪を染めることを恳愿し、それが认められた[64][65][5]。“毎日、生きた心地がせず胃痉挛や头痛がして倒れそうになることがしばしばでした”と长年の重圧を吐露した[68]。
“Oほど素直な被疑者はいない”と取り调べに当たった刑事たちは感心した。Oの记忆は正确でそろばんをはじきながら、“この数字はこうなるんです”と不正书类のからくりを详述した[5]。また警察は、Oが“今あなたに渡すのは银行の金です”と告げ、Yも“最初からOが诈欺を动いていたことは知っていた”という2人の共犯関系を里付ける证言も得た[36]。
T荘の管理人の女性AとOは度々、食事したり身の上话をするなど亲しい间柄となっていたが、Aは游廓で动いてた経験があり、所持金をほとんど持たないOに客の世话などもしていた。回数にして数回程度であったが、后に売春が事実であることを捜查员に告白している。警察は“そういう情报は入ってるが、Oが売春をしていたかどうかそんなことは今、捜查の本筋ではないから别に调べてもいない”と答えた[38]。
- 同居していた男の会见
10月23日、警察ではOと同栖していた土工のBに事情聴取したが、事件には関系ないとみて1时间ほどで闻き取りを终え、Bは県警本部记者室で记者会见をした。
"Oと知り合ったきっかけは?"“同僚たちと行きつけの酒场Mで皿洗いをしているOを知ったのがはじまり。3月末顷だった。なんとなく阴のある、哀れな感じのする人だった。5月初めに‘自分のアパートで一绪に住まないか’と诱われ、それまでの宿舎を引き扬げて同栖した。自分も彼女も独り者だったので、いずれ正式に结婚するつもりでいた”"Oのことはニュースで知っていたはずだが?"“彼女がOとは梦にも思わなかった。新闻で见た手配写真では全然感じが违い分からなかった。一绪にニュースを见ながら‘酷い奴がいるものだな’と话し合ったくらいだ”"彼女がOと知ったのはいつか?"“彼女が逮捕された21日は、ちょうど仕事の打ち合わせに行っていたが、警察に连行されるテレビニュースを见てびっくりした”"今后のOとの関系や今の心境について?"“今はただ惊きとショックで心の整理がついていないので、今后どうこうするかは考えがまとまらない”[55]
こうして警察ではBに犯人蔵匿及び证拠隠灭の罪の疑いはないと判断した[69][14]。
被害の全貌
[编辑]- 史上最大の9亿円となった横领额
滋贺银行の定时株主総会が11月8日开かれ、头取は“信用第一の金融机関が世间を騒がせ、银行に损害を与え减配になったことをお诧びします。Oの犯行金额は9月决算で4亿8千万円まで确认できたが、今后损害はさらに増大する见込みで9亿円に上ると推定しています”と初めて被害が予想以上の巨额に达することを明らかにし、个人の金融犯罪としては史上最大となった。事件の原因について“コンピューターの処理に抜け穴があったことや、女子行员を同一店で永く勤务させ仕事を任せ信赖し过ぎた结果、権限が强くなってしまったことによる”と答え、その対策として“女子行员は长い间、同一店で动かせず适当な时期に転勤させる”などの管理対策を取っていくことを上げた。会场は多数のマスコミが押しかけ紧张感が张り诘め、いつもの倍以上の株主が出席し、银行の责任を问う厳しい质问が続出し、普段は10分ぐらいで终わる総会は1时间もかかった[70][71][72]。このように银行が7年间にも渡って、これだけの大金を骗し取られながら、全く気付かなかったことは全国の金融関系者に冲撃を与えた[73]。
- 横领额の内訳
滋贺银行が大蔵省银行局へ报告した被害额の数字と、Oの自供を元に滋贺県警が推计した数字がほぼ一致し、金额は8亿9,420万3,667円と、それにかかる利息の3,200万円で计9亿2,170万円となり、一女性の犯罪としては史上最高额となった。犯行期间は1968年1月4日[注釈 1]から1973年2月5日までで、犯行回数は1,366回である[74][75][4]。
使用用途 | 金额 | 具体的内容 |
---|---|---|
指轮 | 1,500万円 | 25个のうち13个、750万円分は银行が差し押さえた |
游兴费 | 950万円 | OとYが京都のクラブなどで豪游 |
游兴费 | 4,500万円 | Yとその兄弟や知人がクラブやバーで豪游 |
竞艇代 | 约7亿円 | 里付けの取れた分は3亿円 |
下関のYの家 | 2,200万円 | 敷地1,200平方メートルに2阶建ての豪邸 |
家の改筑费 | 1千万円 | 庭の整备、岩风吕など |
家财道具 | 1千万円 | 电化制品の购入 |
モーターボート | 1,500万円 | 高级外国制5只 |
自动车 | 600万円 | スポーツカー他、高级车3台 |
事业资金 | 5千万円 | 兄の金融会社に出资したが倒产 |
事业资金 | 500万円 | 姊の経営するスナックに出资したが闭店 |
生活费 | 3千万円 | 毎月100万円以上 |
実家の改筑费 | 1千万円 | 家の窗枠はアルミサッシに改筑他、庭园改造など[注釈 2] |
饮食代を除けば、Oが自分で使ったのは1,500万円相当の指轮25个で、その内12个はYに取り上げられ家に残した13个は银行に差し押さえられて、诈取金の98パーセントはYが使ったことが判明した[76]。
Yの供述から、各年の横领金额の量の推移も得られた。
时期 | 1968年 | 1969年 | 1970年 | 1971年 | 1972年 | 计 |
---|---|---|---|---|---|---|
概算金额 | 1,200万円 | 2,400 ~3,600万円 |
8,400 ~1亿800万円 |
1亿2,000 ~1亿8,000万円 |
1亿2,000 ~4亿3,200万円 |
3亿6,000 ~7亿6,800万円 |
残り2亿円は使途不明。[77]
- 无罪となった男の一族
Y一族では兄1人を除いて全员が着服金の恩恵にあずかっていて、警察ではこの家族にも疑惑の眼を向けて捜查していたが无実という判断に落ち着いた[5]。金を受け取っていた一家はYが竞艇で储けた金と信じ、银行から诈取した金とは知らなかったと主张して、警察も一家に対しての赃物収受の罪の适用は见送った。“Yは家に送ったり渡したりした时、诈取した金だとは一言も言わず、もっぱら竞艇で稼いだものだと言っていたらしく、実际に兄の目の前で500万円の元手で3千万円当てたこともあり信用されていた。盗んだ金とは告げず、一族もそうと気づきながら受け取ったわけではないということで、それを覆す证拠が出てこない以上、容疑の适用は无理”と滋贺県警捜查二课は一家への追及は断念、Y一家の横领金の贳い得になってしまった[49][46][47]。
事件の波纹
[编辑]- 物见客で溢れた事件现场
観光客や仕事で近所を访れた人たちがタクシーなどでYの家へ见物でひっきりなしに访れ、Yの豪邸は地元の新名所となり、Oが逃亡中に皿洗いをしていた店にも野次马が押しかけ、‘酒房M’が大繁盛となった。店长は“厚化妆していたから、Oとは分からなかった”と话しており、この店の管理人室にも手配中のOの写真が贴られていたが、疑いを持った者はいなかった。また、Oが母、姊と住んでいた长屋は各マスコミによって写真や映像が全国に流され、身を潜めていたアパート‘T荘’の前にも见物人が杀到し、8社ものマスコミが一度に钵合わせしたこともあった。Oと亲子のように亲しくしていた管理人の女性Aは、この事件を契机にいままで抱えていた様々な持病が悪化し病床に伏せてしまった[42][78]。事件の舞台となった滋贺银行山科支店は周刊志の取材の攻势を受け、行员は来る客ごとに“Oとはどういう女だったのか?”の质问责めに会い、そのたびに谢罪の対応に追われた[79]。
- 寄せられる同情と“ハイミス”という惹句
マスコミは“昭和一桁世代で戦争中に青春を过ごし、结婚适齢期には男たちを戦争で夺われて婚期を逸した女性が起こした犯罪”として事件を报道、结婚せずに长年会社勤めをする女性をさす“ハイミス”という言叶で记事を表现した[21][80]。
“ハイミスのOに7亿近くも贡がせたY[81]”“派手で男好きなハイミス[66]”“史上最高四亿五千万円横领したハイミスの周辺[15]”“仕事には腕の切れる地味なハイミス[82]”“ハイミス犯罪の先駆け[83]”“空前の大それた罪に転落していったハイミスの哀しさ[84]”“元ハイミス模范行员四十二歳[38]”“模范行员奈落の恋 贡いで梦つなぐハイミス 女心のスキ间风[6]”“妻子があるとも知らず爱人に金を贡ぎ続けたハイミスの孤独な半生[3]”といった记事を掲载し、中年女性の起こした感伤的な事件として取り扱った[2]。
留置されている大津警察署にはO宛の约60通もの手纸が届き、その大半がOに同情する内容で、“刑を终えたらうちの会社で动いてみないか”とか“Oへ渡してください”とお金が入った封书もあった[85][86]。
Oと同栖していたBも果物かごを下げ、现金5万円を差し入れ“あの女が罪をつぐなって、帰ってくる日まで待っていてやりたい”と署を访れた[87][5]
Oはバー (酒场)やキャバレー (接待饮食店)、ナイトクラブなどのホステスの话题を独占した。“一度でいいから、それほどまでに男に尽くしてみたい”と、纯情な人柄、9亿に上る大金を爱人のために使い果たし、人生の一瞬を情热的に生きた女性として人気が出た[1][2]。
- ハンサムなヒモ男
世间の同情がOにそそがれていくのとは対照的に、Yへ非难が向けられた。报道された记事には“史上最大のヒモと言われるY(33歳)の素颜[45]”“滋贺银行4亿8千万円を食った史上最大のヒモ[10]”“世纪のヒモ・Yがささえた一族の贵族テキ生活の全貌[27]”“史上空前のヒモ・Y[86]”とYをジゴロ的人物として扱い、外见は“男の目から见ても、なかなかのハンサム[10]”“やさ男だが眉が浓く鼻筋の通ったなかなかのハンサム[82]”“なかなかの美男子[23]”“女心をそそるに足る、色白の优(やさ)男[88]”“バーテン风の优男でなかなかハンサム[13]”と容姿端丽であることを报じた。YはOの他にもさらに4人の女性にも金を贡がせており、その女性达の职业は皆ばらばらだが、全员年上であった[89]。
著名人の意见
[编辑]数々の著名人もこの事件に注目し、Oの人柄などについて新闻や周刊志に意见を寄せた。
- “哀れで、かわいそうで异常なくらいお人好しな女だろう。そしてきっと一途な人なのでしょう[54]”-佐藤爱子 (作家)
- “哀れといえば哀れ、むしろ気の毒な女性だ[54]”-中田修・精神科医
- “どこにでもあるような平凡な女心ですよ。谁だってそうなるかもしれないんです[54]”-なだいなだ・评论家
- “彼女のしたことは全くバカバカしいと思うが、人间みんなが共有している愚かさでもあり、私は彼女を石で打つ勇気はありません[54]”-瀬戸内寂聴・作家
- “四十を超える一人の女性が、男との関系の中に生きる手ごたえを见たと言えるのではないでしょうか。人间としてではなく、部品としてしか生きられなかった银行という职场の中では、こうした事件が起こるのも无理はない気もします[54]”-もろさわようこ・女性史研究家
- “彼女ほど世の男性にとって、いじらしく爱すべき女はいない。男として、とことんおぼれてみたい女である[5]”-和久峻三・作家
- “OLに何の楽しみがある。右を见ても左を见ても男だけが伟くなっていく。もらい手でもあればいいけれど、行く先のない女は、ゴミのように扱われて舍てられてしまう。そんな仕组みの世の中で男に目が眩んで何が悪い[90]”-上坂冬子・ノンフィクション作家
- “彼女が起こした事件の波纹で迷惑を受けた人たちも、Oの过去は许してあげて欲しいと思う[7]”-丸川贺世子・作家
- “かわいそうな女という感じがする。年齢的に遅れ、その焦りを9歳年下の消费世代の申し子のような男に利用されたとも言えるでしょう[91]”-石川弘义・社会心理学者
- “女の性(さが)というか、女の业というか、つくづくOがかわいそうだと思う。惚れた男の喜ぶ颜见たら、女だったら谁でも贡ぎたくなる[92]”-ミヤコ蝶々・漫才师
- “世间の人は、みんなバカな女だと言うけれど私はそうは思えませんね。彼女とすれば真剣そのものだったんでしょう[92]”-栗原すみ子・占い师
- “男を求める一心が金融资本の牙城たる银行のドテッ腹に风穴を开け、9亿もの金を引き出したなんて本当に痛快な话だ[93]”-朝仓乔司・ノンフィクション作家
- “Oには‘マノン・レスコー’にも似た激しく情热的で奔放なところがある[5]”-権田万治・文学部教授
- “女だからという理由で、一つの职场に长く居させられるという差别を逆手にとって横领したのだから、何とも痛快ではないか。彼女こそ自らは意识しなくとも、女性解放闘争の勇気ある担い手である[94]”-榎美沙子・中绝禁止法に反対しピル解禁を要求する女性解放连合代表
母と姊に宛てた手纸
[编辑]Oは母と姊宛に手纸を书きたいと要求を出したので、特捜本部で协议した结果、Oの愿いは认められた。Oは取り调べの合间に毎日5分ずつ便笺4枚に书き上げ11月11日に捜查员が直接、自宅にいる母と姊に手渡し、手纸を読んだ2人は両手で颜を覆い泣き崩れ、マスコミに文面を公开することを许可した[68]。
お母様、お姊さん、本当にごめんなさい、これ以上の亲不孝はないと深く后悔しております。决して世间一般の眼から见まして、恵まれた家庭とは言えなかったでしょうが、亲子三人が平穏无事に暮らしておりましたのに、私の愚かさからぶちこわしてしまいました。滋贺银行の関系の皆々様にも、取り返しのつかないご迷惑をおかけして、お诧びしようにもお诧びの出来ない私です。お姊様が“お若い时からお父様の事で苦労をしておられるお母様だから、姊妹三人で心配だけはかけないように”と言われてた言叶が今更、胸に染み込みます。お姊さんも、あさはかな妹を持ったばかりに银行の中でどんなに肩身の狭いことでしょう。とはいえ生活のかかっているお勤めの事ですから辞めるに辞められず、どんなに心重い毎日かと、ただ申し訳なく思っております。本当の人间の生き方は灿然ときらめく宝石でもなく、美しく着饰って高级车に乘る事でもなく、嘘のない毎日にあるということが、今更ながら痛いほどわかる私になりました。银行の営业室にいます时は勿论、家に帰りましても、夜になって床へ入りましても、たえず悪事がばれやしないかという不安の连続で、正常に物事を考える头もなくなり、やたらお母様やお姊さんに当たり散らしていた事、本当にすみませんでした。こんな极悪な私にでも见知らぬ方々から、慰めや励ましのお言叶を闻かせて下さったり、お心づくしを顶戴したりしました。世の中にはこんなに温かいお心の方々がいらっしゃるのかと、生まれて初めて人の心というものが、しみじみわかりました。今までの私は爪先だけで不安定に背伸びして歩いてきましたが、これからは地面に踵までどっくりつけて、ひたすら真面目に生きて参ります。そして世间の皆様をお騒がせしたことを深くお诧びし、あさはかな私故に犯した罪を、一生かかりまして偿うつもりでおります。これからは日一日と、お寒くなることでしょうから、どうぞお身体に気をつけられますよう、お祈りいたしております。十一月九日、O・A お母様、お姊さんへ[76][85]
読み终えたOの姊は报道阵に“妹はあれだけのことをしたんです。本当に悪い妹です。でも心から皆さんにお诧びしているんです。私も母も银行の方々に世间の人々に心からお诧びします。妹へのお叱りは私たちがみんな受けます”と涙ながらに语って头を下げた[95]。
事件の回顾
[编辑]狱中にいたOに弁护士が事件を振り返って、心境を文章にしてみることを勧め、マスコミにも公开された。
人を好きになるというのは、第三者が见ますと、どうしてあんな男というような人间でも当人にとりますと、その人の良さばかりがちらつき欠点など见えない、盲目になる他爱のないものだと思います。一番最初Yさんの运転するタクシーに乘り込みました日は、西阵支店の恳亲会の帰りでした。その日は、かねてから付き合っておりました男性と、いさかいを起こしてしまい、嫌な気分のまま别れてしまいました。満たされない心で、うちしおれ涙ぐみながら重い心でタクシーに乘りました。気の抜けたようにぼんやりしていた私を见られたYさんは、“どうされたのですか、何かあったのですか”と话しかけられたのです。不安定な心と、むしゃくしゃした気分でいたので、ぶちまけたい気持ちもあったのだと思います。それも私の好みでない容姿の人だったら钓り込まれなかったかもしれませんが、诚に浅薄なことで耻ずかしいですが、浓い髪やきれいな襟足や関西讹りのない话し方に引き込まれました。人触りの良い话し方で、どんどんペースに巻き込まれ、“京都へ出てきて日が浅いので、地理が分からないので教えて欲しい”と言われ助手席に乘りました。私の勤め先と氏名を教えて欲しいと言われ下の名前だけ告げました。帰宅して自分の荷物と一绪に运転日报を持って帰っているのに気がつき、びっくりして翌日タクシー会社にお返ししました。そんなわけで毎日毎日、来る日も来る日も同じような生活をしている私には非常に心に残りました。年を取って结婚を人并みにしていないために、何となく皆の中へ入って行くことも気が重たく、ひがみ根性があって自分の壳に闭じこもっていたところへ、たとえ行きずりの人からでも好意を持っているような言叶をかけてもらって嬉しかったのです。気まずい思いをした日だったから、余计に快かったのかもしれません。その年の9月、私は京都支店から山科支店に异动になりました。それから半年ほどたった顷、帰りのバスの中で偶然にYさんと再会したのです。“あの时の人ではないですか。心の优しいご亲切な方だと、私は今でも时々あなたのことを思い出すんですよ”Yさんは私を见つけて、そんなふうに话しかけてこられたのです。転勤して再びめぐり合い、何と世の中って不思议なものだろうと惊き、何か运命めいたロマンチックな感じになりました。Yさんと一绪に终点の三条でバスを降り、诱われるまま近くの吃茶店に入りました。店の中で彼は私にこんなことを言いました。“あの后、西阵近くの银行やあなたを降ろしたあたりで随分探したんですよ”と。そんなにまで私のことを好いていてくれたのかと思い、次第に彼に好意を募らせていく自分に気づきました。“今日の竞艇では负けましたが、大したことはありません。ごっそり储かることもあるし、兄が下関で大きな商売をしてるし、あなたの银行に预金してもいい”と、新しい店で成绩を上げようと努力していたところへ、とても収入が多いと话されましたので、この人なら取引口座を设けてくれると信じました。今まで自分の知っている世界とは全く违う人、それがとても新鲜に感じられたのです。银行にも男性は大势いるけれどもYさんと话していると男らしさを感じ、男とはこういうものかと思うようになりました。结局、预金はしてもらえませんでしたが、この再会を机にYさんとデートするようになった私は、人の気をそらさない话术や柔らかいムード、无礼でない行动、穏やかな话し方、全てに梦中になってしまいました。Yさんばかりにデートの费用を出さすのも悪いと思って、5回目くらいに私が出しました。ところが8月に体の関系ができてからは、こちらばかりになってしまったのです。その顷、私はYさんに“结婚してほしい”と本心を伝えました。“分かっている。结婚するからもう少し待っていてほしい”それが彼の返事でした。私はその后も何度か结婚のことを口にしました。すると彼は“毎日のように会っているんやから结婚しているのと一绪やないか。籍を入れてないだけと违うか”と言いました。“そうかもしれないけど、やっぱり一绪に暮らして下着を洗濯したり、そういうことをするのでなければ结婚したことにならないでしょう?”何度そう申しても、Yさんは真剣に取ってくれませんでした。私は、彼が経済的な理由で结婚に踏み切れずにいるのだろうと思っていました。Yさんはよく竞艇の新闻を広げて“竞艇は储かる。配当が20倍なら百万円买えば2千万円になる”などと私に说明しました。赌け事をしない私は、そんなものなのかと思い、“竞艇で胜ったら倍にして返す”という彼の言叶を信じ、预金を取り崩すなどして赌け金を出すようになっていました。最初のうちYさんは自転车に乘ってデートにやってきていましたが、“车が欲しい”と言われ中古车代も私が支払ったのです。お金を要求される时、Yさんの言い方は优しいねだるような甘えるような言い方で、断っても简単に谛めず时间を置いて、こちらの颜色を窥って缲り返しねだるというやり方でした。美辞丽句を并べ煽り立てたに过ぎなかったのですが、爱情の为すっかりめくらになっていた私は、その动作も言叶も真実のものにしか思えなかったのでございます。度重なる要求のうちに、私が“やっぱりお金のために付き合っているの?”と申しますと、彼は“そんなこと绝対にない、本当に大好きなんだから信じて”と言っておさまりますが、しばらく経ちますとまた同じことの缲り返しでした。“まだ1円のお金も返してないのに”と私が申しても“もっと资金があれば、ごっそり储かっていたんだが、返すにも资金がなければどうにもならん”と言うのです。“银行の金、何とかならんか”Yさんが公金横领を口にした日のことでした。おそろしい、银行の金に手を付けるなんてバカな事、できるものかと一生悬命断りました。どんなことがあっても、いくら何でもしてはならないと强く思いながら、最后はやはり好きな人の赖みを満たしてあげたいという心の方が胜ってしまいました。本当になんという愚かさ、なんという甘さ、自分という人间の意志の弱さが全く情けないと心底耻じ入っております。大変なことをしている、早くなんとかせねば馘になる、どうしようと悩みながら要求されては犯行を重ねてしまい、5、6百万にもなりました顷には、もう駄目だ、返済もできないと観念のまなこを闭じました。お金を持ってこなければ、これまでのことを银行に言うぞと胁かされもしました。私はもうやけっぱちな気持ちと恐ろしいような不正金额を见るたびに、どこにいても心の休まることはなく、ただ本当のことが话あえるYさんといることが、たった一つ安心できる时だったと思います。大阪での生活になりましてから电话で连络を取り合っていましたが、私の心の中には、まだYさんへの未练な気持ちがすっかり无くなったとは正直言えなかったと思います。生まれつき平凡な地味な私が、あのような大きな犯罪を犯しましたのは、人间というものの愚かさや弱さ故とは申しますものの、何と恐ろしい悪い女であったことかと深く深く后悔しております。今日という日、自分の丑さ、弱さ、小ささをはっきり分かる事ができたようでございます。どんな些细なことにも感谢し何事にも耐えることを忘れず、一刻一刻を丁宁に歩んで参ります。[84][96][18]
裁判
[编辑]公判
[编辑]- 初公判
1973年12月22日、大津地方裁判所で初公判が开かれ、ここでOとYは法廷内で约10か月ぶりに同じ空间に立った。裁判长に向かって并んだOとYの间は署员2名によって隔てられていたが、2メートル程しか离れておらず、Yは绝えずOに视线を送り话しかけようとする素振りさえ见せたが、Oは1度もYの颜を见ることはなかった。この日は検察の起诉状朗読だけで45分で闭廷し[97]、罪状认否についてOは共谋の部分を除き単独の起诉事実についてはほぼ认めたが、Yは记录を精查していないことを理由に留保した[98]。
- 女に损害赔偿の判决
滋贺银行はOを相手取って1千万円の损害赔偿を请求する民事诉讼を起こした。常务は“取り立てできるものなら全额请求したい。しかし、そんなことは绝対不可能でしょう。Oの出所を50歳前后と想定して、それから20年间は动けるものとみて月収10万円として计算し、生活费を差し引いて月4万円ぐらいだったら出せると想定して、20年で约1千万円ということです”と述べ、1974年5月23日、大津地裁は银行侧の请求を认める判决を出した[99][100]。
- 供述を翻した男
その后の公判ではOが犯行の全てを自白し罪を认めたのに対し、Yは“Oとの共谋の事実はない”と无罪を主张し全面的に検察と争った[5]。“Oさんが1人でやったこと。仆は自分からお金を下さいと言ったことは1度もありません。お金を渡されるたびに‘本当に大丈夫ですか?’と何度も念を押しました。彼女が亲しい人から贳った金を仆にくれたものと思っていました。9亿円も使ったと警察で闻かされた时、我ながらびっくりしました”と、Yは捜查段阶での取り调べでの供述を覆した[4]。
1976年1月27日の18回公判の本人寻问でもYは、“Oさんからホテルで‘危険なことではない。あんたに迷惑はかけへん’と言われた。Oさんが悪いことして作った金とは全然知らなかったので、伝票に判を押したりした。银行の金と知っていたら仆は受け取っていない。こんなことになって愤りさえ感じた。Oさんの家族も亲切にしてくれたのに”と声を诘まらせ、うつむいたまま泣き出し、あくまで责任はO一人にあることを主张し、终始静かなOとは対照的に感情をあらわにした[101][4]。
- 银行の问题点を指摘
Oの弁护人は“银行の内部検查の不完全、人事配置、管理上の误りもこの犯罪を大きくした”と银行侧にも责任の一端があることを示唆し、本店検查部长を唤问して、监查役がちゃんと机能していれば事件は早く発覚したはずで、被害金额はもっと小さくなっていたはずとその不备を问いただした。例として1971年当时、山科支店の定期预金の中途解约が非常に多いことが问题になっていたのに、调べるにまで至らなかったことを上げた。支店长代理にも寻问し、特にOが现金を行外に持ち出したことに気づいていながら见过ごしたことを追求したが、支店长代理は“Oから‘得意先から引き出しを赖まれたので直接届ける’と言われたから”と弁明した。不正书类の作成のため、Oが日曜日も出勤していたことについては、“日曜も仕事していたことは用务员のおばさんから闻いてたので、日曜ぐらいは休めと口头注意はしました”と言い、その后の确认作业は行っていなかった。このように原告である银行は被害侧であるにもかかわらず、裁判では厳しく责任を问われた[5]。しかしO自身は“银行は忙しい所で検查など手を抜くことは止むを得なかったと思います。私に银行のことを悪く言う资格はありません。弁护士は银行の管理体制のことを言って欲しくない”と银行を拥护した[102]。
判决
[编辑]- 论告求刑
OとYは判决が出るまで滋贺刑务所に拘置され、裁判は1973年12月の初公判以来22回の审理を重ね、Oは弁护士に“死刑以外なら、どんな判决にも控诉しません。世间が一时も早く私の名前を忘れ去ってくださることが、せめてもの愿いです”と语り、周に1回の割合で母と姊が面会に来ていたが、Yには面会に来る家族はいなかった[102]。
1976年3月16日、検察はOとYに诈欺罪の有期刑では最高の15年[注釈 3]を求刑した[103]。
- 実刑
1976年6月29日、判决公判が开かれ裁判长はOに惩役8年、Yに10年の実刑を言い渡した。论告では“我が国犯罪史上まれにみる巨额の金融事犯”と言われ、裁判は金融机関ばかりでなく法曹界関系者の间でもその判决が注目された[102]。
- 2人への戒め
裁判长はOに“女心の弱みにつけ込まれ骗されたとはいえ、多额の行金を诈取、横领した実行行为の责任は重い。自分の意志で犯行を止めようと思えば途中で止めることができたはずだ。好きだったYを自分につなぎとめるために次々に犯行を重ねていった责任はすこぶる重い。男子に负けまいと热心に努力をし上司や同僚からも绝対の信赖を受けていたが、その优れた知识と経験を悪用したのが本事案である。しかし银行にも管理ミスがあり本人は深く反省、わずかではあるが返済の努力をしていることは认められる”と述べ、Yに対しては“竞艇などギャンブルに使うため、真面目だったOを甘い言叶で唆し、妻子があるのを隠して爱情を持っているかのように振る舞って犯行を続けさせた。‘何らかの犯罪によって得られた金とは思わなかった’などと自らの责任を棚上げするとともに、被害弁済の気持ちもなく改悛の情は认められない。真面目なOを犯行に导き金を使い果たし、责任をO一人に押し付ける态度は悪质”と断定、実行者のOより、Oを唆して榨り上げたYを実质的な主犯として量刑の重い理由とした。これまでYの弁护士は“Oの证言は信用性がない”と诉えてきたが、裁判长はOの证言については“一贯し、かつ矛盾もない。犯行当初、何回もYから金を要求され、やむなく犯行を重ねていた心境を语るその证言は実际に体験したものしか语れないものだ。淡々とした态度と共にその信用性は极めて高い”とした[4][104]。
Yを共同正犯と断定した理由について、“Yは犯行の方法を、その都度Oから知らされていた”“个别の犯行に际しYの要求がない场合もあるが、2人は月の半分以上の日数会っており、全体として1つの犯罪と见るのが相当”“検查があった时、Yは犯行を隠蔽するため伪证书の作成を手伝っている”などの理由を根拠に挙げ、判决文朗読は2时间にも渡った[4]。
2人には750日の未决拘置日数が惩役刑に算入された。Oの弁护士は“银行の杜撰な管理など、これまでの公判で弁论してきたことをよく理解してもらった点で、きわめて満足すべき判决だ”と语り、Yの弁护士は“量刑がOを上回ったことはYの弁护士としては当然ながら不満だ。しかし10年という惩役刑については、Yが9亿円のほとんどを使い果たしたことでもあり、重いという訳にもいかないだろう”と両弁护士とも判决には纳得した。Oは判决直后、傍聴席の方へ振り向いたが、すぐに看守から法廷外へ连れ出された。その时の心境を弁护人を通じて“世间を騒がせたお诧びをしたかったんです。それが出来ないまま法廷を去るのが非常に心残りです”と语った[4]。
- 银行への警告
また裁判长は银行について、“确认体制が整っていれば、不正はもっと早く発见できた。大いに反省しなければならない”と训戒した[104]。当时は高度経済成长の时期で地価が高腾し、土地を転売してごまかした税金が匿名の形で、かなり山科支店に転がり込んでおり、そのため同银行は多忙を极めていた。そしてOの横领の手口の1つとして、この架空预金を利用したものが少なくないことを取り上げ、“银行は税务対策として架空预金を受け入れているが、実质上、脱税の手段ともなっており、银行侧も十分反省しなければならない”と预金获得竞争の中での安易な経営姿势を厳しく批判した。滋贺银行の専务は“この判决の事実を率直に受け止め、2度とこのような不祥事を起こさないよう内部体制の改善に努めたい。银行侧から税务対策として匿名预金を勧めたことはないが、大きな责任を感じている”と诧びた。さらに裁判长は、被害が最小限に食い止められなかったことについて、“新兴住宅地で人口が増え仕事量が多くなったのに人员も増やさず、Oは2人分の仕事をしていた。そして6年半も同じ职务に就くなどして検查监督の查察が行き届かなかった”と、その管理体制の不备も突いた[4][105]。
- 予想が外れた判决内容
マスコミでは盛んにOとYの刑期の重さがどう违うかの予想がなされたが、どんなに同情を集めても、やはり主犯のOが重くならざるを得ないとの考えが主流を占めていた。“Oが主犯、Yが従犯、どう见てもOの方が罪が軽くなることはないでしょう[62]”(滋贺県警)“Oは初犯だし、せいぜい10年かそれ以下。Yはさらにそれ以下で、3年程度で出所できるでしょう[97]”(Yの弁护士)“共同正犯でYの刑を考えると直接金を取ったのはOだから、YをOより重くするのはむずかしい[106]”(植松正)など、専门家でさえその结果を予测できなかった。
6月30日、Yの共犯の判决の结果を受け滋贺银行はYに対して、4千万円の支払いを求める诉えを起こした[4][107]。
- 捜查二课长宛への手纸
Oは判决を受けた直后に捜查二课长宛に手纸を书いた。そこには
あれだけ悪いことをしておきながら、思いがけない軽い判决を受け申し訳ない気持ちでおります。惩役8年ということですが、未决勾留日数2年が算入されますので、実质的には6年の惩役と同じです。真面目に一生悬命服役しますと、初犯者だと満期になるまでに仮出所できるということです。1日でも早く社会に立ち直れるように努力します。いろいろとお世话になり、ありがとうございました。[5]
と缀られていた。
- 报道関系者との一问一答
1974年4月17日、一连の捜查も终わったOは面会した一部のマスコミに心情を吐露している。
"罪を振り返って现在の心境は?"“私が引っ张り込まれたのが悪いんです。意志が薄弱でした。途中で‘自分は悪いことをしている’と心を痛めながらも、自分の口からどうしても言い出せなかった。臆病だったの一言に尽きると思っています。私は婚期の済んだ年代の女だけどYから优しく言われると、つい爱情を抱かれているのだと思って。结局はYにとって私は金づるに过ぎなかったんです。それに気づかなかった浅はかさが悔やまれてなりません”"いつ顷からYの爱情に疑问を持つようになったのか?"“银行のお金を500万円ほど使い込んだ顷で、1968年夏顷だったと思います。"Yとはどんな男か?"“もう関系のない人です。何の感情もありません。取调官がYが‘Oは好きでないし金づるだった’と言ってると伝えた时は恨めしい思いがしましたが”"Yと法廷で会ってどんなことを感じたか?"“共犯者が出てきていると思っただけです”"逃亡生活を振り返って一番辛かったことは?"“母や姊と连络が取れなかったこと。自杀しているという报道もあったし”"自杀を考えたことは?"“あります。ただ踏ん切りがつかなかった。逃げた当初は‘もう死ぬしかない’と思っていました。だから厚生年金の证书も焼いたんです。警察で‘お前はYに无心されたからやったと言うけれど、一方的に贡いだんだろう’と言われた时は悲しかった。私はいまさらYの立场を悪くする気もなければ、助ける気もありません”"今谁に一番会いたいか?"“母です。白髪の増えた母が面会に来た后は、悔いと寂しさが残って・・”"刑务所の生活はつらいか?"“つらいと考えること自体が私には许されないと思っています”"日记をつけていると闻いたが?"“ここへ移った日からつけ始めました。自分を见つめるための手段です。犯した行いは、もう戻りませんけど”"夜、梦は见るか?"“はい、毎日のように梦を见ます。どういうわけか、银行时代の楽しかった社内旅行の时や、友达とショッピングをしている自分の姿がよく出てきます。それと逃亡中のアパートの生活も”"大阪で同栖してたBさんに対する気持ちは?"“口数の少ない人柄のいい人でした。骗して生活してきたことは心からすまないと思っています。私がふさぎ込んでいると优しく话しかけてくれたり。私と会う気持ちがあれば、刑を终えたらお礼に伺いたいと思っています”"银行から损害赔偿も起こされているが?"“何としてでも偿いをするつもりです”"今度の体験から得たことを一言"“いついかなる时でも自分を外から见つめる心构えがないと、自分を见失ってブレーキが效かなくなります。今度の私みたいに”[108]
事件后
[编辑]- 离散した男の一族
Yは完全に破产しており、“Y御殿”と言われた邸宅は人手に渡り、妻とは1975年6月23日付で狱中离婚した。Yの融资で一绪に金融业‘Y商会’を経営していた兄、赌け事を手伝っていた弟、义弟は债権者に追われて行方不明になり、义理の兄は元の仕事に戻った。実家も人手に渡り年老いた両亲は病院へ入った[43][86][24][49]。
Oのことを娘のように可爱がっていたT荘の管理人の女性Aは心労で倒れ、1年程入院して死亡した[7][5]。
事件発覚后、滋贺银行山科支店では预金者の解约が続出した[109]。
- 刑务所へ入所
1976年7月、Oは和歌山刑务所に入所したが所内でも有名人となっていて、入る前から受刑者の间で噂话が蔓延し、入所日は作业场でも皆が落ち着かず仕事が手につかないという状况で、最初は独居房へ入れられたが、看守の目を盗んで皆が覗きに行き、职员でさえ好奇心に駆られてOを见物に行くというありさまだった[110]。
Oは配属された工场で1か月程ミシン作业に従事してから、元银行员としての経験を生かして计算业务に携わった[16][7]。そして银行への赔偿金を刑务所内での仕事の报酬金の一部を充てて弁护士を通じて返済を始め、1980年になった时点で半年ごとに5万円ずつ计6回30万円を银行に返済しているが、Yの方は报奨金の方は返済には一切回していない[111][112]。Oは最初から服役态度良好で、规则に违反したことはせず物静かに所内で过ごし、时おり债権者の滋贺银行の人间が面会に来ていた[110]。
1981年6月18日に51歳になったOは、模范囚のため仮釈放を许可された。この时点で银行への损害赔偿は40万円を返済していた[113]。 そして母亲に付き添われて、この事件を担当した警部の元へ出所したことを报告するため挨拶に出向いたが、警部の方でも刑务所に送り込んだ犯人から挨拶に来られたのは初めての経験だった[18]。そしてOは再び母、姊の3人暮らしに戻った[114]。
1986年になって55歳になったOは、100万円以上を银行に返済したが、Yは1円も払っていないことが报じられた[83]。
评価
[编辑]诸泽英道は、1970年代以降にマスコミによる过热取材があった事件として、大久保清事件(1971年)、富山・长野连続女性诱拐杀人事件(1980年)、宫崎勤事件(1988年 - 1989年)、女子高生コンクリート诘め杀人事件とともに本事件を挙げ、各事件の共通点を以下のように総括している。
- 被害者が若い女性であること
- 犯人の动机が常轨を逸しており、犯人の异常さ・巧妙さが际立った事件であること
その上で、视聴者や読者の関心がいわゆる“覗き趣味”倾向(被害者が犯人によってどのように痛めつけられたのかなど)や、被害者や関系者の落ち度に向けられていたと指摘している[115]。
エピソード
[编辑]- Y同様、最初の被害者Kとの出会いも偶然で、Oが停留所でバスを待っている时、雨が降り出し伞を开いたらKが中に入ってきて、“银行の人だったら预金しようか?”という风に会话が进んだのがきっかけとなった[18]。
- 1960年にYは他にも関系を持ち、腕时计や金品を贡いでもらっていたタクシーの女性客が2人いた[30]。
- 1970年中顷、Yは“横领した金は、もう3亿円事件の犯人と同じくらいになってるのと违うか”とOに话した[30]。
- 同年7月に滋贺银行の新支店が开设されることが决まり、もしOが転勤となれば不正が発覚するため、Yと2人で神社に参って“転勤になりませんように”とお祈りをした[30]。
- Oが逃亡中、警察ではYが京都市内で购入してOに送った白金制、メーカーはオメガで30万円相当の高级妇人用腕时计の写真を制造番号と共に公开した。Oが逃走资金を作るために质入りする可能性があり、全国の质屋へ照合し协力を呼びかけ潜伏场所の手挂かりを探ったが、时计はOによって既に廃弃処分されていた[116][5]。
- Oが身を潜めていたT荘には1人だけ、Oが犯人ではと薄々感づいていた住人がいたが、确信が持てず通报するまでには至らなかった[39][41]。
映像・出版関系
[编辑]- ノンフィクション‘裁かれた银行 滋贺银行九亿円横领事件’(角川文库、1981年10月20日、和久峻三著)
- 実录小说‘4亿5千万円を诈取した女’(‘周刊小说’1973年10月19日号、実业之日本社、水口隆一郎作)
- 映画‘OL日记 濡れた札束’(日活作品、1974年2月6日公开、O役 中岛葵、Y役 堂下かずき)
- テレビドラマ‘滋贺银行九亿円横领事件’(テレビ朝日、1981年2月7日放送、O役 大楠道代、Y役 火野正平)
- 剧画‘ザ・女の事件 8亿9千万を贡いだ女 お局银行员、狂恋の果てに’(ユサブル、2019年7月5日、作画 神崎顺子)
- 浪曲‘女の罪 九亿円滋贺银行事件’(ローオンレコード、発売日不明、呗 真山一郎)
- 松本清张の代表作の一つで、1978年に雑志に连载された小说‘黒革の手帖’は、地味なOLが勤务先の银行から大金を横领する话であるが、小说の中に“数年前に起こった或る地方银行の横领事件もやはり永年勤务する预金系の女子行员で、その金额が九亿円にも达していたことで世间をおどろかした[117]”という记述がある。
- 1977年に雑志に连载された佐木隆三の小说‘诈欺师’は、やはり银行の金を横领する女子行员の话で“滋贺事件のようにやれ”“Oにできて、おまえにはなぜできないのか”というやり取りがあるなど、この横领事件に関连する记述が多くある[118]。
注釈
[编辑]- ^ 最初の被害者Kの分は预かった通帐と印鉴で普通に引き出されたり、银行を仲介していなかったりで银行侧は损害を受けてなく、起诉もしていないので排除している。
- ^ 2人の横领金の使用用途による金额は各媒体によって数字が异なっており、ここでは信用できる报道を基础としながら、それぞれの报道内容を比较して、発表されてる频度の多い数字を出した。参考にした表は読売新闻 1973年11月8日 朝刊 22面、毎日新闻 1974年1月12日 朝刊 14面、朝日新闻 1973年10月24日 朝刊 23面、京都新闻 1973年10月24日 朝刊 23面に掲载されたものである。
- ^ 当时の刑法であって、现在は10年。
- ^ 此为二人受审时被提诉的金额,与部分新闻媒体的报道或有出入。
参考文献
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